尾張の茶道4 名古屋茶道史

吉田暁文の名古屋茶道史に、松尾流の流入が詳しく書かれている。

松尾流の来名

かくの如き茶道の発展に拍車をかけたものは、これと同時即ち上述の町田秋波の歿後、千覚々斎の推挙に依って当地に出張教授をした松尾家代々である。
(略)
七代 好古斎宗五 明治廿一年三月一日歿。年四十二。
当代には、京都の住宅が元治の兵火に遭って焼失したので、その住に困り、一時名古屋の出張所暫遊亭に慶応元年家長一同避難した。
茲に於て暫遊亭はただ出張所に宛てて建てられたものであるから狭隘を感じ、明治四年東区桜町二丁目に居を移した。

松尾流のホームページを見てみる。

 蛤御門の変で、京都の東洞院通押小路上ルにあった松尾家も戦禍にあい、名古屋へ一家が疎開しました。江戸時代から明治へと世情は激しく変り、文明開化の余波を受けた茶道も廃れて、京都へ戻るきっかけを失ってしまいました。これが反面、幸いして、当地方の茶道文化発展につながったと考えるものです。
 名古屋に永住をきめたのが、9代・半古斎で、明治の中ごろであり、それ以来、名古屋を中心に活動しています。

元治元年7月に蛤御門の変。翌年慶応に改元
…半年どうしていたんだろう?弟子宅を点々?

7代か9代かどっちかは判らないが、明治になって名古屋に移動した流派、ということで、尾張藩への影響が少ないのは当然か。

にしても気になるのは、松尾流がいつ、表千家の出張要員から、一流を起こすに至ったか。
でも、その辺は不明。
松尾流家元としての免状なり許状なりの発行がいつ開始された…かがキーポイントなんだけど、表千家側がそれを委任していた可能性もあるしなー。

にしても。

四代 不管斎宗俊 文化二年六月廿七日歿。年二十五。
五代 不俊斎宗五 文政十三年六月十六日歿。年三十九。
六代 仰止斎宗古 安政三年四月廿九日歿。年三十七。

割と早死の家系なんかな?流儀維持が大変そうである。