尾張の茶道2 尾張の茶

天文二年七月、京の山科言継は、織田家の老臣平手政秀の宅に立寄り、茶をよばれ、八時頃まで酒の振舞をうけていた。
そして日記のなかに「種々造作驚目候了 数寄之座敷一段也」と書いていたから、
政秀の宅にもすでにその頃、京の公家が感嘆するような「数寄之座敷」ができていたのであった。
天文二年といえば紹鴎は三二歳、利休はまだ僅か十一歳に過ぎないときのことである。
『言継卿記』に書きとめられたこの事実は、織田家を中心とする尾張の茶が、かなり早くから盛況へ向かっていたことを物語っている。

言継卿記は、信長以前の織田家茶の湯が流行していた事を示す時によく使われる資料。

侘数寄の人、『長闇堂記』の天正十五年の北野大茶の湯の時の次のような話が出ている。
(略)
彼の美濃の国の人、其の名は一化、松葉をかこひの脇にてふすべ
(略)
美濃の人であったとはいえ、一化の話はやはり、この地方における民衆への茶の湯の普及ぶりと、「侘数寄」に対する素養を象徴しているように思われてならない。

珠光や紹鴎が茶を広めた…という世界観があるから変な感じがするのである。

珠光以前から茶の湯はあって、数々の茶人がいた。たまたま京都と大阪にスーパースターが出て有名になったので、後に彼らスーパースターをその道の伝導者にしてしまった、というのが実情ではないか?

紹鴎は最初のスーパースター。珠光は利休の時代、遡ってスーパースターにされた人。


水曜どうでしょう」以前に全国にUHF局が無かったわけでもローカル人気番組がなかったわけでもない、みたく考えればいいのではないか。