尾張の茶道8 尾張藩における有楽流

有楽流の家元織田長繁が語る尾張藩有楽流について。
非常に冷静な語り口である。

本来の目標を「尾張における有楽流」に求めたが、今回は「尾張藩における有楽流」に限定した。
(略)
有楽流の茶人達が活躍した場面を再現し、そこから考察を行いたかったが、史料不足によてこのような方向にすすめなかったこと、

個人の想いでなく、資料ベースに話を進めていて好感が持てる。


さて、尾張藩の職制としては数寄屋頭というのがあったらしい。

彼らの職掌は、毎日三度の勤め、煎茶、恒例のものには元旦の大服のこと、臨時のものには上使到来の時の濃茶、諸客接待の場合の茶事がある。
(略)
数寄屋頭の流儀を見ると、有楽流に属するものが目につく。

武士かつ茶道師範、というよりは茶坊主的な物であったという感じか。


有楽系織田家の旗本、織田貞置に関しても非常に冷静で

貞置の甥貞幹も貞置について有楽流を学び、その系統者の位置を得るに至っている。
貞幹は宮内または周防守と称して尾張藩に元禄年間まで仕えていたことが「編年大略」に見え、江戸詰もあり名古屋に屋敷を所持していたことも明らかである。
彼が直接に茶道を以て仕えていたか否かは詳かではない。

貞置の甥が尾張家にいたことは判っているが、なんらかの茶道上の役割を持っていたかは不明と言う。

天保十年封をついだ斉荘は裏千家玄々斎に学び、彼を京から招いて奥伝を終り、次いで門弟宗仲を招いて扶持十口を与えている。
これまで有楽流が主流であった尾張藩が、裏千家に代わった事情については玄々斎の出自と出身地に直接的な背景があったと推定されるが、この外に斉荘が将軍家斉の十一男で襲封決定に際して藩中に多くの不満を与えたという一般的事情も考慮する必要があるようにも思われる。

子沢山将軍の家斉が強制的に大名家に送り込んだ養子の一人が斉荘。
敵地にパラシュート降下した様な状態の斉荘としては、馴染みの大名子息の流儀をもって旧風を払わないとやっていけなかったということだろうか。

慶勝は藩政の改革を断行し、特に襲封十ヶ月の後には「当家は原と有楽流を宗とす。故に若し事あれば旧流を以って勤むべし」(名古屋市史)と示したので、有楽流が復興したという。

しかし後継者によって有楽流に戻されたという。

藩政改革の一環なのがちょっと面白いね。
裏千家系茶堂が将軍家紐付きで嫌だったのか?それとも有楽流より裏千家の方がコストが高かったのか?
その辺気になるわぁ。