尾張の茶道9 金の茶道具

熊沢五六「尾州敬公と尾張府内庫茶器」より

徳川美術館の什宝のなかに黄金台子道具一揃があることは注目に値する。

ということで、徳川美術館の黄金台子道具の由来について。

徳川美術館の純金茶道具は、戦国の乱世を収拾して徳川三百年の基礎を固めた家康の命令によって作ったと目されるもので、これについて少し古記録を辿ると、『台徳院殿御実記』の慶長十二年二月二十九日に、

−大御所江戸城を御発興ありて駿府に赴かせ給ふ。相州中原にて数日御放鷹し給ふ。この頃御旅館に金の茶釜をはじめ、茶器類うせてみえず。

徳川家康が金の茶釜を家臣に盗まれ、改易処刑している事が記録されているからである。

まだ豊臣家滅んでないので、豊臣家から奪ったりはしていなさそうだ。

ついで、家康から尾張藩祖義直に金、銀御道具が譲られたことが明らかとなっている。

−−金子之御道具覚 一壱ツ 釜 但くハん共 一壱ツ 風炉 但くハん共(略)

江戸時代から戦前まで、数回使用した記録もあるとの事。

しかし戦争中に供出され、日銀預りとなっていた。

終戦詔勅が下ると同時に日銀と交渉に入った。
時の日銀名古屋支店長は後の吉田内閣の時に蔵相になられた一万田尚登氏であった。
八月二十三日、栄町の日銀支店は焼けていた。無事に残ったその倉庫から金器を受取り、
荷馬車に積んでその上に蓆をかぶせて日銀を辞去した。まことに虎の尾を踏み、
毒蛇の口を逃れる思いで、瓦礫の焼け跡の中を運んだのである。

いろんなドラマがあるんやねんな、と思う気持ちと同時に貴顕ってのは終戦直後からそんな活動開始してたんかいなとあきれる気持ちもわきおこってたり。


なお名古屋城の金の茶釜は、第二次大戦の空襲で焼けた名古屋城金のシャチホコの再生品らしいので、そんな歴史的な由来はないようである。