茶事談8 本朝茶事相承之圖
よくある茶家系譜であるが、もちろん?突っ込みドコロ満載である。
東求堂だと和漢雅器を集めるには狭すぎるのではなかろうか?
あと、銀閣寺が金箔あるいは銀箔貼りと思われていたのかもしれない。
引拙
或印雪 氏不知 住南都珠光没後称宗匠嘉七十
なぜ鳥居引拙の名字が不明なのだろう?七十死亡説は山上宗二記からの情報だと思うのだが、それならば名字が判らないのはおかしい。
粟田口善法 住洛東 茶誌ニ出タリ
禅海和尚 一路庵
泉州堺ノ東石津ノ上市村ニ住シ今一路庵ノ跡アリ此僧常ニ手取鍋ヲ持テ粥ヲタキ
後ニ是ヲ洗テ湯ヲ沸シ茶ヲ喫スト云禅海ノ歌ニ 手取鍋おのれは口がさしでたぞみそうすたくと人にかたるな
善法と禅海の混同が起きてはいないか?
あとこの二人を珠光門にするのはどうなんだろう?
珠光以前の茶の湯文化はなかった、という説に立った弊害か。
武野紹鴎
(略)
當代紹鴎好ミノ茶器ト号シ玩ブ其實不詳附會多シ
唯茶人ノ用ルハ棚コレ紹鴎實ニ好ム者ナリ
然レ共退テ見ルニ前ノ戸ヲ開キ水指ヲ引出ス不自由ナルモノナリ
袋棚批判がさらっと入っていてびっくりした。
武野宗瓦
紹鴎嗣子 方寸斎壮年ノ時紅線ノ衣服ヲ飾或ハ紅服紗ヲ用ユ
十八九歳ノコロ卒ス光徹宗瓦居士
壮年の話をした直後に十代で死んだと書くのはどういうものか?
なお実際は65まで生きた模様。
道安もそうなのだが、二代目が活躍しないと夭折したことにされる傾向がある気がする。
宗易
納屋ト云俗名輿四郎
茶事ヲ易庵ニ受ケ後紹鴎ニ傳受ス
紹鴎宗易茶事ノ達人タルヲ知ル
信長公ニススメ則五百石領ス
元亀年中正親町院依勅命七品ヲ献ス
依之利休居士ノ号ヲユルサル七品ノ茶器ハ茶ヲ嗜ム人ハヨク知ル故略ス
紹鴎の死ぬのは信長の桶狭間以前。どうやって交流したのか?
さらに利休号は茶道具7品とのバーターだったという衝撃の展開。
その七品知らないので是非教えて欲しかった。
道安
(略)
始メ紹安ト云常ニ蹇病有テ家督ヲ継事不叶
或説ニ曰ク宗易死スルノ時道安身ノ難ヲ免レント西国ヘ出奔スト
然レトモ道安ハ天正十五年七月朔日ニ死ス
宗易ハ同十九年ニ死ス
道安ノ死ハ宗易ヨリ五年前ナリ
是ヲ以テ此説偽リナル事ヲ可知ル
自信満々過ぎる。
…やはり道安早死説は主流派だったのだろうか?