高谷宗範傳2 戦国武将と茶

昨日の緒言の続き。

織田信長豊臣秀吉等は、斯道を以つて戦國に育つた、武辨一点張りの粗暴なる武人に儀禮を教へ、茶室内に於ける耽美的生活によつて、その魂に一種の潤ひを含ませ、心身を養ひ、趣味の向上を圖ると倶に、和敬清寂を本として天地中和の氣を樂しましめ、治世安穏の風雅なる風俗を作るの一方としたのである。

信長たちが茶にハマる前から堺の町人達が茶にハマりまくっていた、という点が語られないのは、裁判官であった高谷宗範が商人的な人物でなかったからであろうか。

これいふまでもなく治國平天下の一策であつて、先生の所論とは共通したものであるが、只先生の如く眞ツ正直に、而して露骨に率直に茶道經國と銘を打つて、堂々ご高唱しなかつた為め、今先生が斯く叫ばれるを聞いて、全く夫れが茶道とは何の由縁もない論議のやうに耳新しく感じたのである。

…これまた箒庵との議論がらみである。

しかも信長、秀吉等は、この茶道を利用して國策の一助とする一方、武辨者の人心を収攬する一法として論功行賞に際し、茶器を以て今日の勲章制度を採つた為め、終に茶器尊重の弊風を作り出すに至り、其結果、年を逐つて儀禮による服茶本來の面目を忘れ、茶具の撰擇愛玩のみに重きを置き、然らざれば朋友會談會食の媒とし、或は点茶の作法にのみ拘泥し、又は茶具取合せの趣向にのみ走り、肝腎の茶禮をこれに附随せしめるに至り、世に所謂道具茶人、趣向茶人、手前茶人、口服茶人等稱する茶人連を簇出せしめるに及んだのであるが、現代茶人の多くも、口に茶禮を説きながら、尚且つこの陋習に囚はれてその域を脱しない者が至つて少なく、又これが覺醒を叫ぶ者もない現状に在るのを看て、先生は太だこれを遺憾とし、自から起つて松殿山荘茶道會を設け、これに據つて茶道經國の大旆を樹立天下に向つて呼號し、以つて、斯界の惰眠を破られたのである。

いや、だから道具茶はすでに紹鴎以前からあったわけで…。

緒言のほとんどが箒庵との議論がらみ、というのは、よっぽど箒庵との議論が悔しかったんだろう。

故人を偲ぶ書籍の緒言がこういう内容なのは、故人もこう考えているだろう、だから供養の為にも代弁してやろう、そう考えて書いたのではなかろうか?