高谷宗範傳3 高谷龍洲翁
宗範の父、高谷龍洲が結構面白いので茶の湯ブログとしてはちょっと脱線する。
先生の父君高谷龍洲翁は、豊前中津の藩士で(略)
又龍洲翁は、明治文化の先覺者福澤諭吉翁の母堂とは、再従兄弟の間柄であつた、随つて福澤君に對しては、「諭吉々々」と呼び捨てにされて居たといふ。
つまり、高谷宗範も福沢諭吉の親戚筋になる。
高橋箒庵も慶應義塾出身で諭吉に師事していたわけだから、諭吉の親戚と諭吉の弟子のバトルだったという事になる。
箒庵が時事新報の記者だった時代、宗範と知り合っていた可能性もある。
明治維新後、龍洲翁は大學教授に徴されて東京に出て、芝愛宕下に居を卜し大學に通はれる餘暇、家塾を開いて子弟の教育に盡瘁された。
當時此塾に集つた人々には、中江兆民、長谷川二葉亭、西源四郎、土屋元作その他の諸氏があり、
当時の中津藩というのはどうして教育系人材を二人も輩出できたのだろうか。不思議である。
その頃龍洲翁は福澤翁に會ひ、「君は名文を書くが、漢學の素養に欠けて居るから、私に就いて勉強をしたらどうだ」と勸告された、
スルト福澤翁は「御親切は難有う存じますが、私の文は、私の言はんとする事が、何人にも容易に了解されればよいので、別に立派な文章を書かいでも、此通俗文で結構です」
と答へたといふ話が傳へられてゐる、以て兩翁の面目を想見することが能きる一挿話である。
なかなか福沢っぽい回答で面白いじゃないか。