高谷宗範傳4 お茶はじめ

明治二十五年二月二十七日従六位に陞り、同年十一月二十日勅令によつて高等官五等に叙した、同二十六年四月二十九日本官を辞すると同時に、永き官吏生活を廢め、同年五月一日東京地方裁判所検事局に於て辯護士名簿に登録して辯護士となり、居を大阪に移されたのである。

「明治二十五年高等官官等俸給令」では高等官五等は裁判官としては中の下クラス。
宗範が官吏になったのは明治七年。
勤続二十年で最終が五等俸だったのは出世した方なのかしなかった方なのか…。

明治十九年、先生が初めて來阪された際は中之島玉江橋附近に家を持たれ、暫くにして東區伏見町三丁目へ移轉された、家主は磯野小右衛門氏で、その頃から先生の茶道研究は始つたらしい、

官僚時代に茶を始めた宗範。

明治時代は官僚バンザイ給料ガッポガッポの時代なので、それなりの収入だったろう。もちろん、同時代の数寄者にはかなわなかっただろうが。

何しろその頃は茶道も下火で、随つて茶釜其他の茶器類も非常に値安つた頃とて、時代や作人を問はず、茶釜といへば先づ平均二圓五拾錢見當で好きなものが手に入つた時代であつた。

だが、明治十九年頃にも茶道が下火で茶道具が安かったかは疑問も残る。

先生は夫れをドシ/\蒐集された、
されば後年大審院詰めとなつて東上される際、その荷物には茶釜が一番の大梱でその運搬に困られたという程であつた。

宗範が東京に呼び戻されたのは明治二十三年。

東海道本線の全線開通が明治二十二年。

これはタイミングがよかったと思える。そうでないと大荷物持って東京へ引っ越したりはできなかっただろう。