高谷宗範傳5 遠州流
その頃大阪江戸堀筋違橋西詰南入つた所に青木習々齋宗鳳の流れを汲んで、遠州流の茶を教へて居た貯月庵平井治郎右衛門と呼ぶ茶家があつたので先生は同僚であつた座光寺糾氏外二三の人と倶に此茶家へ入門して点茶の技を修め、後には日曜會といふを組織し、各友人持ち廻はりの茶時をやられた事もあつた。
貯月庵に関しては大阪市史史料48集として「大庭屋平井家 茶会会記集 貯月庵宗従茶事会記録」という本が出ている様である。
貯月庵が遠州流本家のある東京ではなく、大阪で自立していけていたなら、別段当時茶の湯は衰退していないような。
官界を退き辯護士となつて再び來阪された際は
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丁度その頃、京都大徳寺龍光院に滞留して居た、東京の遠州流家元分家である小堀宗舟氏は、大阪に於て同流の茶を宣傳すべく、これが披露として梅田の席貸し家田村あさ方を借りて茶技の發表式を行つた。
小堀宗舟は、遠州流でなく分家の小堀遠州流の家元である。
龍光院に滞留、という事は東京のシマは本家に蚕食されていたのだろうか?
その時の客は平瀬露香翁を筆頭に、戸田露吟、中野善九郎、春海藤次郎等であつたが、併し平瀬翁は茶道皆傳者といふので、一人入席し、唐物天目で茶を喫しられたが、他は資格のなき為め、孰れも次の間からこれを拝見するといふ事になり、當時年の若かつた太田佐七氏なども倶にこれを拝見したといはれて居る。
此事が世の風聞する處となるや、先生は直ちにその門に入り、
宗範は四角四面の人なので、パトロン候補の方々にさえ有資格無資格を区別する宗舟のやり方にしびれたのであろう。
遠州流茶道保存會を設立する事に決め、明治二十八年十二月十九日午後四時より平野町の堺卯樓に於てこれが發會の晩餐會を催された、
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惜しいかな小堀宗舟氏は、明治三十五年八月三十一日に病没したので、己むなく形古場は閉鎖し、内弟子であつた森本女子は、先生の家庭へ引取られて行き、令嬢方に茶の指南をする事となつたのである。
とりあえず当時は遠州流も、小堀遠州流も、ただただ同じ遠州流として認識されていたということだろうか?
遠州流茶道保存会、という名からも小堀宗舟が相当困っていた事は想像に難くない。