高谷宗範傳13 戦闘開開始


宗範の、よく言えば真面目な、悪く言えば堅苦しい性格は、こんな感じだったらしい。

而して自身に會得の行かぬ事は、その流儀に在る友人先輩に就いてこれを糺し、或は多くの茶書によつて徹底的にこれを究めなければ惜かぬといふ、白熱的の態度で事に臨まれた為め、往々にして理屈屋とか或は喧まし屋とか、法律茶人など陰口を叩く者さへも生じた程であつた、

実はこう見えて私はたくさん茶書を読んでいるのだが、茶書間の矛盾にはひどいものがある、と実感している。

それら矛盾した茶書を、整備された法律の様に扱ったら、相当おかしい事になると思う。

明治大正の数寄者は、家元クラスですら権威と思っていなかったみたいなので「ハイハイまたはじまったね」ぐらいにあしらわれたのではあるまいか?

兎に角先生は、茶道を以つて自己の趣味性に滿足を輿へる娯樂物、或は一種遊藝的な技能と目して澄し込んでは居られないのであつた事は、昭和七年一月發行の「茶道月報」誌上に、高橋箒庵氏が「おらが茶の湯」と題し、茶は趣味娯樂に在りとご説述された論議に對し、先生は堂々茶道經國の大旆を押し樹てヽ同誌上に於て大論戦を交へられた。
世間周知の事實に見ても容易に了解されるのである。

たぶん、宗範の堅苦しさを苦々しく思っていた箒庵が、茶道月報でチクチク皮肉った。

それに宗範は激烈に反論した…という所だろうか。

箒庵は福沢諭吉ライン門下でアジ文書きには一日の長があった。思った通り宗範は煽られた、ということだろう。煽り耐性低すぎである。

宗範の時代にネットが無かったのを幸いだと思う。