おらが茶の湯

高橋箒庵/茶道月報掲載/1932年。

茶道全集日本の茶書2*1にも収録されている。

おらが茶の湯を始めたのは、三十二歳の時で、

と、自己紹介から始まる。

爺ぃの昔話かな?と思いながら数ページ読むと、突然に様相が変わる。

近頃世間には茶の湯と云ふ事に馬鹿々々しく勿體をつけて、道徳の教訓と結び附け忠君愛國の氣風を養ひ、危險思想防止の効能があると言ひ觸らし、甚しきは茶道經國など云ふ、大袈裟な宣傳をする者もあるやうだが、おらが茶の湯はそんな者ではない、茶の湯は本来趣味である、趣味として之を樂しめば夫れでおらは滿足する、無論茶の湯に依つて世間に樣々の好影響を及ぼす事があるかも知らぬ、併しそんな副産物を眼中に入れるのは、既に第二義に墜るものである、

茶の湯は趣味だろ、楽しくなさそうなテーマつけんなや!という、宗範の理念に対する攻撃。

おらは本來日本の一紳士として、我が心の赴くまに/\茶の湯の趣味を樂む者で、宗匠として模範を後學に示さんとする石が無いから、流儀の形式に囚はれて窮屈なる思ひを為したり、面白くもない席にシビレを切らして長居する義務もない、
聞けば近頃書院茶の湯を復活せんと企つる者もあるさうだが、
書院の臺子茶などヽ云ふのは原始時代の形見で宗匠連中は心得て置かねばならぬであらうが夫れが、世間に流行ぬのは草庵侘茶の趣味が夫れより遥に面白い為めである、

書院の茶なんていらねーだろ、草庵侘び茶の方が面白いから流行ってんだろ、という、大変な現実論。

近頃は各流宗匠中にも大學を卒業した家元もあり、段々議論が緻密になつて來るのは誠に結構であるが、茶道は趣味で理窟ではないから、餘り理窟に囚はれと其處に又茶味を減らす虞れがないとは云はれぬ、
併し或る茶人が近頃茶禪一味に非ずと講釋したと云ふ事を聞いたが、本氣でそんな事を言つた者かどうかおいらには薩張り其譯が分らぬ、
考へても看よ、茶と云ふものは、茶の實の請來から、儀式から、趣味から、一切合財禪坊主に依つて成り立つた者ではないか

茶道を礼の中に位置付けようとする宗範の試みに対するカウンター。


更に、文書はこう締められている。

之れに對する御小言のお相手だけは眞平御免を蒙るから、夫れは豫め斷つて置く

ヒドい最後っぺ。

軽妙で巧妙で、名指しは一応していない箒庵の攻撃に、宗範がどうリアクションしたかは明日。

*1:勘違い。11/23訂正