高谷宗範傳15 結末

んで、宗範と箒庵の議論はどうなったか?

茶道月報の該当部分を追っかけられないので、実は私は良く判っていない。


日本の茶書2の解説で、

この「おらが茶の湯」は、発表されるや猛烈な反撥を受けた。
ことに文中に批判された高谷宗範は反論を雑誌に寄せ、ために両者の応酬がくりかえされた。
これは後に「高谷宗範・高橋箒庵両先生茶道論戦公開状」となって世に出た。

とある。

しかし実際読んでみると「高谷宗範 高橋箒庵 両先生茶道論戦公開状」は「おらが茶の湯」を全文収録した上で、宗範の反論をのっけた冊子である。

一方的な反論であって、論戦とは言い難い。


山荘流の方の話だと
http://sansouryu.web.fc2.com/souhan.html

ただこの論争自体は決着を見ることなく不毛なままに終わってしまいました。

と、激しい議論にはならなかったという御様子。


昭和七年の「星岡 第十九号」の目次に

魯山人 菷庵翁の反省を喜ぶ(高谷宗範 高橋箒庵 両先生茶道論戦公開状)に就て」

というのが載った様なので、形式上は菷庵が頭を下げたという事になるのかもしれない。
ただ、魯山人が一方的に菷庵の負け判定しただけという事も考えられる。


なお、昭和11年発行の箒庵の茶道讀本には、「茶讃」として、ほぼ「おらが茶の湯」と同じ内容が収録されているので、箒庵的には負けたつもりはない御様子、である。