「おらが茶の湯」の位置付け
日本の茶書2の解説にこうある。
箒庵がこの書において「茶の湯は趣味なり」と喝破したことは、長く茶の湯を精神修養の具とみなしてきた常識を一新する自由な見方であった。
明文化したのが偉い。というのは認める。
しかし、明文化したかどうかは別として、箒庵ら近代数寄者は大体同じ事を思っていただろうし、その趣味性にしたがって明治大正昭和の茶の湯を行って来た筈である。
昭和10年に発行の始まった茶道全集では、森川如春庵や無茶法師(川喜田半泥子)が、人をくったような文章を寄稿しているし。
「茶の湯を精神修養の具とみなしてきた」勢力をびっくりさせた。という所ではないか。
私が考える「おらが茶の湯」の問題提起。
1.茶道経国論への反発
2.つまらない台子への反発
3.南坊録(曲尺割)無用論
4.茶禅一味否定論への反発
5.点前中心主義の反発
6.成金道具茶の肯定
こんな所であろうか。
2は、「つまらない」台子をわざわざ復活させるのは趣味性として不純、という意味だろう。
3は、この時期に割と革新的である。南方録全体の否定ではないが、その端緒といってもいいのではないか?とはいえ、あくまで趣味性の観点である。
4は、後年の「茶道讀本」では、歴史的に茶道を攻撃して来た勢力「儒者」への反発が書かれている。高谷の礼を中心とした茶道を、儒者の論として反発したのかもしれない。
5と6は、近代数寄者として道具茶を楽しんで来た人物として当然である。
そして本題の1に戻る。
箒庵がこの文を書いてから5年もすると、日本の軍国主義は急速に進む。
さまざまな茶書の巻頭言が「陛下の御稜威で」とかになっていく。
これが高谷宗範の思った「茶道経国」かというと、全然違っている気がするのだが、形式的にはクリソツになる。
昭和6年の満州事変以降、箒庵にはそういう未来が見えていたのかもしれない。
…まぁ単に「堅苦しいんだよバーカバーカ」としか思ってなかった可能性もあるけど。