高谷宗範傳14 論戦
箒庵に対する宗範のリアクションは、以下の様に出版されている。
「高谷宗範高橋箒庵両先生茶道論戦公開状」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1136337
まず序文。
初め余は先生の論文を讀み、近頃光榮としえ雀躍欣喜せり、
何となれは、箒庵先生は、兼て喧嘩嫌ひと承りたるに、新年早々突然{宣戦を布告す}、余に向て挑戰的論鋒を加へられたり、余は己に老たりと雖、賣り掛けられたる喧嘩は、買はねばなるまいと思ふ、
来いや!受けたるでーー!っという事であろう。
理念に関しての反論。
我山荘の茶道は、今回新に設立したる者にて、舊式茶の湯を踏襲したる者に非らず、故に前述の如く、皇室中心を主義と為し、茶道の禮義道徳を以て、國家經綸の機關と為す者なり、是れ即ち余が自由任意を以て、此解釋の下に新設したる者なれば、敢て他人の容喙を許さず。
てめー独りの趣味の茶で批判するなや。天下国家の為にやってるんやで、という事らしい。
書院の茶の復興に関して。
今日我國の趨勢を觀よ、(略)
且夫れ今日社會に立つ所の紳士等は、皆繁劇の職務あり、
一日に僅五人以下の客を招待して、數日を重ぬる事を得ず、
故に書院式に依り、一日に十名二十名等の、多數の客を招待するの便を開く、是時勢の要求する所ない、
(略)
上來説明する如く、余は書院式を復興して時勢適當に之を改善して、草庵式と並ひ行ひ、我茶道をして完全に發達せしめ、以て國家に貢献せんと欲す
「書院の方が多く捌けっだろ」と意外に現実主義。
あと、書院と草庵両立させてこその茶、という定義なのね。
我山荘流茶道は、皇室中心主義を以て、國民道徳を守り、禮義を行ひ、茶道經國を目的として、新に創立したる者なり、決して彼の茶禪一味を唱ふる、舊式茶の湯を踏襲したる者にあらず、故に彼の宗教禪に何等の關係なし、
(略)
箒庵先生は、只趣味を樂む一事を以て、茶の湯なりと解釋し、古來禮義を以て茶の湯の大本主審と為せし事を知らざる者の如し、故に茶が儒學に因て發達せし事を知らず、只禪に因てのみ發達せし者と想像し、随つて茶禪一味に心醉せし者ならんか、
(略)
古來茶人は大抵皆参禪すと雖、未た禪堂に登り坐禪を為し、眞に禪を修めたる者あるを聞かす、又未た一回も碧巌の提唱を聽きたる事なし、僅に参禪の式を執れば、忽ち大悟したる名僧の如く自得し、頻りに茶禪一味を鼓吹すれ共、其心未た禪を解する者にあらす。
お前らの茶道観で批判するなや。新しい茶やねんで、という反論。
「主観の相違」「定義の相違」が反論になっているかは甚だ疑問だ。
茶人はちゃんと禅なんてしてねーだろ、という指摘は同感である…いや、こまったな。
そして最終章。
第六章 人を毆打して逃ぐるは武士道に非ず
章題だけで十分判る内容である。