高谷宗範傳16 遠州会

宗範と箒庵の議論から、ちょっと時代は戻る。

扨て先生は、斯くの如く茶道に對しては、實に眞劍であり、嚴粛であつた結果、仮りに茶席を設けて賓客を招くにしても、亭主自らが茶筅を振らぬのみか、飾付けから懐石の配膳に至るまで、出入りの道具屋、若くは知合ひの茶家、乃至は自己の師事してゐる茶の師匠にその一切を委任し、亭主は只それ等の人々のなす態を傍觀して居るやうな風の多いのを見て慨歎し、点茶は是非とも亭主自身がやらねばならぬ、飾付けも自己の手で行はねばならぬ、又懐石の献立、配膳等は亭主夫妻が共同で行ひ、夫妻揃つて賓客を待遇せなければならぬと力説し、

宗範の反発から、当時の関西の数寄者の内容が判る。

  1. 点前は代点
  2. 仕切りは道具屋か茶の師匠
  3. 懐石は仕出しか板前の出張

明治後の成り上がりによって始められた関東の茶が極侘びで進行していたのに対し、昔からの富豪達の茶の湯である関西の茶は、上記のようなものであったのは佐々木三味などの証言などからも明かではある。

大正二年には御影嘉納治郎右衛門氏邸の新築披露茶會を機會として遠州會を起し、東區北濱にその事務所を設け、森本女史を置き、其家を稽古場として阪神間の名流紳士を集め、抹茶と挿花との研究を熱心に續けられた、

大正二年ということは松殿山荘建設より5年ばかり前の話である。

この頃は宗範がまだ遠州流だった事が判る。
と同時に、小堀宗舟の内弟子である森本女史を11年も養っていたというのも凄い話である。