高谷宗範傳17 山荘流

遠州流の奥儀を究め、更に諸流の研究に専念された先生は、現行の茶道が利休以來の舊式を墨守してゐるだけではなく、中にはその皮相を模して精神に遠ざかつたものも少なく、いづれにしても今日の時代とは相當に距離を有した点もあり、随つてこれを百年、二百年の後世へ傳へるには餘りにも時代錯誤の甚だしいものがある事を痛感され、茲に山荘流の一派を樹立されるに至つたのである、

さて、小堀遠州流の庇護者であり、遠州流の茶人であった宗範が、わざわざ一流を興すことになったのはなぜか。

他の流儀であれば、利権云々を考えてしまうのだが、宗範はそういう人ではなかろう。

おそらく、様々な研究会を開き、研究しているうちに、遠州流の茶と様々な点で解離し、客にその点を指摘されたりすると面倒な感じになっていたのではないだろうか?


完全相伝の武芸とかであれば、一流を極めた人物が自流を興すのはなんの不思議でもないが、お茶の世界は不完全相伝がメジャーで、仮にも東京に家元が存在する遠州流ではやりづらい事も多かったに違いない。


あと、数年前に大日本茶道学会が復活していたのにも刺激を受けたのかもしれない。

なお、この時森本女史も山荘流にシフトした模様。
宗舟の内弟子になる程遠州流に打ち込んでいた彼女だが、16年も養ってもらうと宗範に嫌とは言えなくなってるだろうから、そこはしょうがない。
気がついたらお湯が熱くなっていたって感じかもしれない。