高谷宗範傳21 茶道革新改善の急務
宗範昭和五年の講演から。
茶道は明治維新の時に於て他の文化と共に革新改善すべき者なり
(略)
珠光今を距る四百年紹鴎、利休、凡そ三百年遠州、石州、宗旦は凡そ二百五十年を經過す、其れ此年代に於て創造編設したる所の茶道の法式は今日既に陳腐に屬する者尠からず
今や我國の文化は皆舊套を脱し新衣を着くべき時なり
茶道は伝統だからいいのだ、という発想の方が多い中で、新しい茶道を目指す宗範。
言ってる事は保守主義のソレなのに、やりたいのは革新という不思議。
目下流行する所の茶道の教授を觀るに薄茶、炭、濃茶、を平手前と云ふ
之を卒業すると其次は小習と稱し次は大習と稱し、次第に上級科目を進めて之を教授す
其科目は頗る細密繁多に渉れり
殊に臺子式を十二段に分ち又其上は奥十段を設けて之を教授す
然れば現在の手前全科は終身之を學ぶも到底之を修了することを得ざるなり
現在斯くの如き繁多なる手前科目は悉皆實際に必要缺くべからざる者なるか否然らず
其手前科目中實際に必要なき者尠からず
故に此等の科目は能く之を整理して其必要なき者は之を省略し且其教授方法を簡捷し茶道の本質に基き第一禮儀實行を目的として且時勢に適應すべく手前法式又教授方法を改善すべし
点前の数、特に台子が複雑で多段階すぎるだろ、
実際茶会やっても使わないんだし、整理しろ!という主張。
理解も納得もできますが、その代わり「そもそも台子なんて使わないだろ」というカウンターを受ける事になる条項ですな。
殊に今日の茶道教授は卒業期限なきは實に不合理なり
又素人茶人と宗匠と為るべき茶人を同一の方法を以て教授するは其當を得ず
故に今後は之を區別し共に適當なる卒業期限を定めて教授すべく改善せざるべからず
楽しみで茶人になりたい人と、茶の先生を目指す人のカリキュラムは分けろ、という、これまたまっとうな主張。
ところが
今日の教授法は専ら手前法式を教ふるのみにして禮儀を教ふることを閑却し
殊に茶事準則を教えざるは大なる缺點なり
そこで「茶事」を教えるのは大賛成なんですが、「礼儀」ってのが、正直良く判らない。
茶の湯の礼儀は茶事の為にあるわけなんで、茶事を教えればいいんじゃないですかね?そこに礼儀includeしちゃだめですかね?とか思うんですが、おそらく明治末大正の数寄者の茶の湯は楽しみに耽るあまり「礼儀がなってない」と宗範が嘆くような状態だったのかも。