高谷宗範傳20 茶道の流儀と茶道の定義

宗範昭和五年の講演から。

余夙に茶書を渉獵し各流の定義を研究せんと欲せしも文献の徴すべき者更に之れなし、其汗牛充棟の茶書は皆手前方式及び茶會道具附に關する記事のみにして一も茶道の精神定義を闡明したる者なし、
利休の歌に曰「茶の湯とはたヾ湯を沸かし茶を立てヽ飲むばかりなる本を知るべし」と、今の茶人は此歌を以て利休の茶道の秘訣として大に賞讃すれども、甚だ淡白無味にして茶道の定義と認むることを得ず。

伝利休の「ただ湯を沸かし」が「淡白だし茶道の定義ではない」とはなんという達観か。
眼から鱗だわ。

茶書中に在て南坊本録は南坊宗啓が利休の眞説を筆記したる者にして利休の蘊蓄は皆此書中に包含する所の者にして茶道の金科玉條と稱す。
之を他の茶書に比する時は茶會の法則器物の配合等大に見るべき者ありと雖、悉く皆之を利休の眞説なりと斷定することを得ず

箒庵より早く南坊録批判かな、と思いきや:

實山も亦禪に入りたる者なり故に兩人共禪に立脚して茶を説きたる者なれば禪に偏倚する所多く純正なる茶道獨立の精神定義を解釋闡明したる者に非ず

南坊録は禅よりなのでいかん、利休の茶には礼の要素もあったはずなのに、それがすっぽり抜け落ちてるからな!と言う理由とは…

普通は茶道には礼の要素はなかった、とか考えるトコではあるまいか?


この部分の締めくくりはこうである。

今日以後一流の茶家宗匠たる者は我流儀に屬する所の茶道の本旨たる定義目的を闡明表示して、而して後之を教授すべからず。

すげぇ。

茶の湯の総元締めでもするつもりか。


宗範の欠点は、自己の無謬性への過信かもしれない。

自己無謬故に他は我に従わねばならぬという謎の自負。そして自己に凄いカリスマ性があるわけではないので天皇制を自説の補強にしてしまう。

でもこれってずっぽり儒者の欠点なんだよねぇ。