高谷宗範傳22 関東と関西
宗範昭和五年の講演から。
關東富豪茶人は常に書院式に反對し、專ら草庵に名物珍器を陳列して茶事に遊び戯るヽ者多く、未だ茶道經國の精神に依り之を研究する人を見ず、盖之れあらん、余未だ之を見ざるを遺憾とす、
関東の茶人──これが箒庵一人を指すのか、複数なのか不明だが、この話は昭和7年の箒庵の「おらが茶の湯」以前から、「書院式」に反対する声があった事を物語る。
然るに近來關東茶人は一旦草庵茶會を終了したる後將に退出せんとする賓客を誘ひ、更に他の廣間に按内して番茶果物を供す、
而し其床の間には立派なる掛物花瓶等名物珍器を陳列しあり、盖草庵陳列のみにては滿足出來ず、故に兼て此廣間に陳列し置き、此所に按内して之を展示する者なり、
余按ずるに草庵茶會終了後に於て之等の事を為すより、寧ろ初より其陳列の道具を以て堂々と書院式荘嚴の茶會を開き以て賓客を優待滿足せしむるの勝れるに如かざるなり、
畢竟關東茶人が書院式に反對しながら茶後更に廣間に於て番茶を以て書院式同樣の接待を為すは其理由を解することを得ず。
書院に反対し、草庵の茶の湯にこだわる関東茶人も、結局は広間に移って後段の会をやるじゃんかよ。狭くて道具出せない草庵で満足できないからそうするんでしょ?最初っから広間で書院の茶をやりなよ…
まぁそういう主張なわけですな。
この頃、関東と関西で数寄者の対立があったのは、まず間違いはないだろう。
しかし、不思議な事に、鈍翁や箒庵は後段が好きではなかったらしいし、むしろ後段付は関西の弊風だと思ってた節もある
http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20130827