講座日本茶の湯全史4 珠光から紹鴎へ

谷晃著。…書きたがると思った。

茶の湯の世界で「開山」とも称される珠光は、こうした茶の湯がしだいにその姿を明確にしつつあった時期に活躍したと喧伝されているにしては、同時代史料にその名をみることは少ない。
(略)
しかも宗珠の後嗣は、あまりぱっとせず、『天王寺屋会記』の永祿三年(一五六〇)六月六日朝の条に、
又七会 宗珠跡にて
一、床 らんの絵、玉かん
と津田宗達が記して、この当時すでに宗珠は没し、その跡目が又七であったことがわかるものの、その書き方はそっけなく、とても「茶の湯の開山」の孫の茶会に招かれたとの感動は伝わってこない。

山上宗二が珠光を称揚するまで、珠光がマイナーな存在であった傍証。
そうか俺、天王寺会記そういう見方しなかったなー。

また世にいう「珠光名物」、たとえば圓悟の墨蹟・九十九茄子茶入・珠光抱桶水指などが珠光の名とともに茶会記にあらわれるのは、利休がある程度堺グループの主導権を握るようになる天正年間後半(一五八二頃〜)以降であり、それまでは珠光の名を付けずに、本来の名称だけでしか茶会記には出てこない。
(略)
江戸時代も中期になると、忽然と“珠光作茶杓”といったものまでがあらわれる。
さらにいわゆる松屋三名物を所蔵していた奈良の松屋が珠光筆と称する文を持っていて、松屋の茶家としての名声を高めるため、堺グループの“珠光伝説”を都合よく利用して、ことさらに珠光の名を宣揚することに努めたことも、珠光−紹鴎−利休という道統が茶の湯の正統派であるとの考え方に寄与した部分があるかもしれない。

珠光ブランドがさまざまな人の思惑で成立していく様子…ってのは非常に興味があるジャンル。

しかし珠光名物持ってる人(藤田美術館とか)に嫌われそうな事をきちんと言えるのが谷晃のいいとこ。お茶を愛してやまない上に厳しい人である。