講座日本茶の湯全史5 珠光から紹鴎へ2
紹鴎に関し、谷晃の意見は簡単である。
ともに京都なかんずく下京に居を構えた関係で、紹鴎は下京の人びとと親交を結び、茶の湯を学んだのであろう。ただし茶の湯を学んだとはいえ、現在の師弟関係をそのまま当時にあてはめるのは無理があり、もっとゆるやかな結びつきであったと推定される。
(略)
実隆の没後、堺へ戻った紹鴎は、そこで茶の湯についての思索を深めるかたわら、
のちに女婿となる今井宗久や、津田宗及・千利休などの堺町人グループを率いていったと考えられる。
京都で学んで、堺でリーダーシップを取った。
これだけといっていい。
まぁ
紹鴎についてはすでに戸田勝久の詳細な研究がある
ということなんだろう。
三条西実隆が死んだのが1537年。
天王寺屋会記の始まる1548年までの間に、紹鴎は影響力を発揮した、という事だろうか。
しかしながら珠光の出身地、松屋会記は1534年にはスタートしているし、実は京都→堺よりも奈良→堺の方が地理的にも経済圏的にもずっと近い。
紹鴎が行かなくても堺に茶の湯は存在したと思う。
紹鴎がここでリーダーシップを取るとしたら、紹鴎が戻って来た事自体より、紹鴎がもたらしたものが強力であった、ということではないだろうか?
新しい茶の湯の方式かもしれないし、理論かもしれない。
しかし、そういう曖昧なものよりも、もっと簡単で強力なものを思い付く。
紹鴎名物。
京都での人脈で御物を含む大量の名物を入手し、それを持って堺にいけば相当の発言力を得られそうな気がする。
この時期は道具の茶の湯だもんね。