講座日本茶の湯全史6 茶会記から何を読み取るか

竹内順一著

茶会記からは、「優雅な茶の湯の思い出」や「町衆と武家との身分を越えた親交」が伝わってくると思われがちだが、そうではない。

痛快かっ飛ばしである。

それもあったかも知れぬが、茶会記は、内容上、三種に大別できる。
第一は、単に備忘録風に茶会を簡単に書き留めたもの、第二には、天下人や貴人の茶会などの「特別行事茶会」を記録することに主眼を置いたもの、第三には、評判の高い茶道具や有名な茶道具に接して、その道具の特質を記録したものである。
本稿で注目したいのは、第三番目の、一言でいえば、「茶の湯道具に関する勉強ノート」のような茶会記である。
なぜなら、「良き道具」、すなわち「名物道具」を知り、学ぶために開かれた茶会は、この室町時代末期から江戸時代初期にのみ集中し、「四大茶会記」の何よりの特徴であり、その後の茶会記にないからである。

茶道具をじっくりねっぷり眺めて書いた様な茶会記は、室町末から江戸初期にしかない、と著者はいう。

非常に面白い指摘である。

だが、本論文はその後、各茶会記記述の各論に行ってしまう。残念。


だから私が考察する。

唐物舶来ならなんでも良かった室町時代と違い、室町末から江戸初期に関して、茶道具に審美眼が要求されるようになった。

そして、多くの道具が堺、京都、奈良に集中していた。

畿内の3都市を中心とし、公家武家商家という区分よりもざっくりとした「富裕層」のサロンができた。

だから互いに名物道具を鑑賞し合うという関係が生まれ、茶道具をじっくりねっぷり眺めて書いた茶会記が生まれた。

しかし江戸中期以降、身分制度は固定され、藩の垣根は高くなり、なのに多くの道具が全国に広がってサロンは形成しにくくなった。

また、出版業が盛んになり、わざわざ拝見して記録しなくても、名物茶道具の特徴は本で読める様な状況になった。

かくして茶道具を穴の開くほど睨みつける様な茶会記はこの世にでなくなった。
おしまい。


なんてことではなかろうか?