講座日本茶の湯全史7 千利休の生涯

中村修也著。

町衆としての利休の生涯について。

千家については「千利休由緒書」という史料が唯一残されている。
この「由緒書」は、承応二年(一六五三)に表千家初代江岑宗左が、出仕先の紀州徳川家の命により、「千家系譜」とともに提出したものである。
(略)
ところが、この記載にはいささか疑問がある。
それは千姓に改めたという点である。

ここから利休は屋号が千、姓が田中なのであって、姓が千なのではない、という話になり

ところが「千」が名字=姓になる事が来る。それは利休が処刑され、養子・少庵が京都において独立した時である。
宮王家出身の少庵が、実家に戻らず茶の湯宗匠として生きていく道を選んだ時、田中姓を名乗るわけにもいかず、義父・利休の屋号を姓にした可能性は十分に考えられる。

これはありそうな話ではあるが、屋号を姓にする…という不自然さの方が目立つ。田中姓が名乗れないなら屋号を姓にもできないし、屋号が姓にできるくらいなら田中姓名乗ればいいのでは?とか思うのはおかしいだろうか?
また、少庵は「茶の湯宗匠」として生きていく道を選んだのだろうか?
そっちも疑問がある。
本気で血統主義なら宮王とか名乗ればいいし、無関係気取りたいならきむこうとかゆうていとか名乗ればいいぺぺぺぺぺ。

では、この由緒全てが疑わしいかというと、必ずしもそうではない。
「里見太郎義俊ノ二男田中五郎ガ末孫」という個所であるが、
(略)
田中家は新田郷田中村において磐石たる勢力をもった一束として存在していた。
そのような一族の系譜に勝手に入り込むことが許されるであろうか。

スケートの…いえ、なんでもないです。

気づかなきゃいいやって捏造もありえるし、相手が気づいててもねじふせるし。
ま、徳川家康からして新田源氏を名乗っていたりするのが江戸時代でしてね…。


つーことでこの著者とは「千利休由緒書に疑問あり」という点で一致できるんだけど、どうも各論が一致しないんだよなぁ。