講座日本茶の湯全史21 千家茶の湯の広がり2

元伯の時代は、その伝授を受けた者は、一派を立てるかたちであった。
師弟関係を求める時に「子弟の堅め」の文書が取り交わされることが見られる。

宗旦の頃は、完全相伝で別流が立てれた、ということだろう。
私の流派も事実上完全相伝なので、「子弟の堅め」的な物は取り交わしている。

なお、なぜか著者は「完全相伝/不完全相伝」の用語は使わないようだ。

如心斎には「云置」が複数存在する。
病弱であった如心斎が嫡子であるロ卒啄斎に宛てた遺言とでもいえる。その一つには次のようにある。
一、後々二男三男在之節、他名ニイタシ申度候、兼而宗室と其後申合置候、堺ト名字ヲ付申度候、紋所コマ付サセ不申、(略)

三千家以外に、千家は立てず、別の名字にさせること、家紋も許さないこと。

ただ、疑問なのは、なぜ「田中」を名乗らせないのか、である。
徳川に対する松平。織田に対する津田。宇喜多に対する浮田。庶流の名字はもう少し連想できるものにする筈だが…。

今もこの云置は厳格に守られている。

おそるべき伝統。

この云置は、三千家の範囲を拡散させない為のもの。この時期に三千家という概念が確立したといっていいのだろうか?

いや、もっと前に確立したものの明文化という可能性もあるから、さらに遡れる可能性もある。

宗旦直後の、江岑の頃からでも不思議はない。とどのつまり祿を喰むとはそういう物だから。