講座日本茶の湯全史22 茶の湯の地域的展開

山田哲也著。

本稿では、近世後期に焦点をあてて、この時期の茶の湯について述べていくこととする。

ということで、支配階層である不昧、宗雅、柳沢堯山に加え本願寺茶の湯と、被支配層である各地の町人の茶の湯について述べている。

ここでは

三人目は、大和郡山四代藩主柳沢堯山である。

堯山の茶の湯について見てみたい。

茶の湯は石州流の田中素白・久保宗竹・片桐宗幽に師事した。

素白は水戸へも石州流をもたらした人。宗竹は不明。片桐宗幽は石州の一族。
この時代、大名クラスは家臣の茶堂に茶を習うのだと思っていたが、堯山はそうではなかったということか。石州流文化マフィアの様なものがいた、ということ。
また、大名の交際に石州流は重要で、さらに大和郡山藩と片桐家のあった大和小泉藩はお隣りである。石州流は必然だろう。
ただこの情報どこから出て来たんだろう?

四月六日の堯山の自会記を紹介すると以下のようである。
(略)
掛物は「舜挙の葵」、唐物である。ほかは和物道具を使用している。
この掛物一点豪華主義は、堯山の特徴の一つであろうか、大和郡山での自会記にもその傾向がみられる。

掛物重視は案外南坊録の影響じゃなかろうか。

さらに堯山は、茶の湯伝授にさいし、門人に許状を出していることも特筆されよう。
(略)
他にこのような例は、広島藩の家老を勤めた上田宗箇の流派に認められるだけであり、しかも上田家の場合、当主は家臣の「茶事預」に茶の湯の実際を任せていたのであるから、堯山のようにみずから筆を執って許状を作成し、授与していた例は他にはなく、大変特異なものといえよう。

大名でこーゆーことする人は珍しい。そしてこれは茶堂に茶を学んだのではできないことだ。

しかし著者が許状と免状を区別した上で許状と言っているのか気になる。許状だと茶の湯御政道的な「大和郡山城下での茶の湯を許可する」的なものだったりしないだろうか?