講座日本茶の湯全史29 近代茶家の復活

筒井紘一著。

伝統文化としての茶の湯が危機的状態におちいった時代、それが維新後の封建制度瓦解と呼応していることは、いまさら言挙げする必要もない。

ということで(主に三千家が)冬の時代をどう乗り切ったか、という話。

まず先頭を切ったのは、長老であった玄々斎宗室である。
明治五年(一八七二)七月に「茶道の源意」と題し「乍恐奉願上口上書 右者茶道之意味奉懇願候」と添書きし、時の政府に差し出した。
(略)
碌々斎はもちろんのこと、玄々斎や一指斎のこうした努力があって茶道の師匠は遊芸人という不名誉な鑑札を所持せずにすんだのであった。

遊芸人の鑑札は、地方税として各道府県で行われたもので、京都では興行費用の20分の一を徴収されたようである。
これに茶家が抵抗したという話は有名であるが、真意はどの辺にあったのだろうか?

  1. 家元が遊芸人扱いされるのは恥ずかしい
  2. 宗匠師範も、遊芸人扱いされたら茶の湯を辞める人が出そう
  3. お点前指導することを興行として扱われると、家元の財布の中を覗きこまれてしまう

名誉の問題か部下統制の問題か財政の問題かそれらの全てなのか。
名誉の問題だけとして処理するのはちょっとどうかと思う。

その結果考え出されたのが京都の守護神である北野神社への献茶の儀であった。

こういうデモンストレーションとしての献茶は、明治の始めに三千家があがいて開始したものだったのか。

圓能斎は(略)一八歳を迎えた明治二二年に、駒吉は宗室を襲名し、一三代家元としての新しい第一歩を踏み出した。しかし、維新後の西欧文化第一の世のなかにあって、茶道の衰退ははなはだしいものであった。

裏千家の困窮=茶の湯の衰退でもないと思うのだが…。


あとは新島八重の話になっちゃうのですっぱりスルー。