講座日本茶の湯全史33 茶の思想2

最初に岡倉天心の『茶の本 The Book of Tea』(一九〇六)をとりあげる
(略)
岡倉は『茶の本』の最初の部分で、茶の湯を「不完全の賛美 a worship of the Imperfect」(二一九頁)という言葉で性格づけている。

茶の本」の中身を評論してもしかたないのだが…。
茶の本」のいう茶が、我々の茶の湯と一致しているのか、また、これを読んだ人間がどういう活動をし、どういう本を書いたか…そういう視点の方が有益な気がする。

私は「茶の本」のいう茶は、どうも私の知っている茶ではない、観念上にか存在しない茶のような気がする。

次に、久松真一における茶の湯の性格つけを見てみたい。
(略)
久松によれば、茶の湯を性格づけている根源的理念は──「侘」である(『茶道の哲学』所収「茶事の和美」)。
(略)
侘の心が確立することによって、そこから従来の茶の湯を倫理的にも芸術的にも批判することが可能になったというのが久松の見方である。

久松は南方録を極端に理想化したような思想を展開するんだけど、それでは誰もついてこれない。

柳宗悦

柳は基本空論なので省略する。


著者はこの三人の「不完全の美」に対するアプローチを比較しているのだが、これ、茶の湯思想論ではなく、茶の湯の美意識論だよなぁ。

私は「不完全な美とは…」とか考えながらお茶は飲まない。

茶の湯が道具を使った遊びであり、美は道具の優劣を判断するときの評価基準でしかないことに立脚しないと空理空論の世界を漂うことになると思う。