日本藝道と佛教のこころ

岩見護/永田文昌堂/1958年。
戦後の出版だが、昭和18年に出版されたものの再版。でもたぶん皇国礼賛は省かれてると思う。

内容は茶の湯に限らない、芸道と仏教に関しての本。

序文にあたる「日本の藝道」より。

藝道といふものは一つの修練である。
修練を離れて藝道といふものはあり得ない。
それ故にそれが一つの境地に到達すれば、すぐにより高い境地が求められる。

芸道の本質は理想を追い求め修行を続けることにある、と著者はいう。

それ故藝道に於いては停滞をきらふ。
一所に止まることなく常に進むことが要求される。
「一通りはやつた」と言ひ得るけれど、單に「やつた」といふことは誰も容易に言ひ得ないのである。
「一通りはやつた」といふことは、より高き二通りも三通りもの階次を、いくつも豫想してゐるのである。
むしろ常に自己の到達した境地の上に、更に遠く更に高い層々無盡の境地を望んでゐるのである。

それ故満足をしらない芸道者は、常に高みを目指し続けると。

生涯修行といふことは永久に完成しないといふことなのであるか。
まさにさうである。
然らば何のために修行するのであるか。
それは歩々に完成してゆくからである。
未熟は未熟ながらに一つの藝であつて、その藝道以外のものではなく、低きは低きままに潤水にうつる月影の如くに、そこに美がありよろこびがある。

すばらしい。すばらしい論だ。ボク甘えちゃいそう。

しかし芸道が生涯修行で完成しないものであるなら、家元の権威ってのは何なのでしょうかね…。

かくの如く考へる時、日本の藝道が、その修道敵なる點に於いて、著しく佛道の修行に似通つてゐることを感ぜしめられる。
(略)
美的享樂の生活と禁慾修道の生活とは、人間の永營む生活の中で、もっとも極端に對蹠的なものであらう。
(略)
従つて今もし、藝道は美的享樂を目的とするものであり、宗教は禁慾修道をむねとするものであるとするならば、藝道と佛道とは相反すること千萬里でなければならぬ。
(略)
西洋の主潮から言へば、藝術は享樂的現世的陶醉的であることが本質であり、宗教はあくまで嚴粛に神を畏れ神に仕へ、禁慾修道することが本質であるのであつて、たま/\それが近接し同居するときは、多くは宗教が藝術にひきよせられひき入れられてゐるやうに見えるのである。
それに比べて我々の國に於いては、宗教はその嚴肅なる面を柔げて、春の日のやうな光を輿へ、藝道は現世的よりも出世間的な、享樂的よりも修道的な、陶醉的よりも反省的な面影を、より多く持つてゐるやうに思はれ、そしてこの場合宗教と藝道との近接は、宗教が藝道をひきつけ、宗教が藝道の中に溶けこんで藝道を育んでゐるやうに思はれるのである。

面白い視点だなぁ。

こういう視点があるからこそ、芸を宗教と一緒に語ることも、そもそも道を芸と呼んでしまう事も、著者はまったく恥ずかしげもなく行えているんだなぁ。