日本藝道と佛教のこころ3 苦味清淡の境
茶の湯は數學だ。
かいへば人は奇抜なことをいふと思ふであらう。
しかし茶席に行はれてゐることを見るといつも私はさう感じるのである。
まづ道具を持ち出して爐を中心にして配置する。
そして間隔と角度、亭主の膝の位置、柄杓の位置、もしまた棚を用ゐるならば爐と棚との距離間隔角度、さてはまた客と客、客と亭主との動作の關係、見來ればこと/”\くこれ、極めて正確なる直線と角との關係ならざるはない。
そこで私は茶の湯は幾何學だといふのである。
角度とか。
どっちかというと、畳の目を物差しとした陣取りゲームのようにも思える。
和敬清寂は茶の湯の四綱領である。
和と敬とは己を捨てて他に従う所以だ。
清と寂とはよく私慾を離れる所以だ。
茶室は傲然として自己を主張する者の入り得るところでない。
(略)
一旦こゝに入れば人と人の對立はない。
(略)
數學にも比すべき繁瑣な準縄は、この空無の境において行はれ、そして遂にまた空無の境に歸すべきものなのである。
空なるが故に規矩準縄があり、規矩準縄によつて空があらはされてゆく。
かくの如くにして茶の作法が茶道となり一心得道ともなるのであらう。
ながながしく書いてあるが、規矩は心の入れ物なんやで、ぐらいに思えばよかろうか。
まぁ適当で乱雑なお点前に遭遇すると、客の心もハラハラドキドキになるので、空とか無とかいえないトコに行っちゃうもんな。