喫茶南坊録註解4 真行草

著者は茶の湯の歴史と真行草の話をしているが、それはオミット。

真行草の関連性の話のついでに出た、著者のぼやき。

此ノ一貫ノ定法ハ系統アリ聯絡アリテ、一糸乱レザル者ニシテ、古時ハ之レヲ茶道ノ生命トナシタル者ナリ。
然ルニ現今ノ茶界ニハ其ノ要理ノ何者タルヲ知ラズ、其ノ名称ヲサヘ知ラザルニ至レリ。
豈驚クベカラザランヤ。
現今世ニ行ハルヽ茶道ハ陰陽ナク、禅理ナク、吉凶慶弔ノ別ヲ辨ゼズ、真草相混ジ、敬驕相雑り、漫ニ破格乖法ノ茶式ヲ立テ、以テ新匠ナリ奇想ナリト称シ、相誇リ相競フニ至ル。
茶道ノ大原ニ明ナル茶人ヨリ此ノ状ヲ視レバ、實ニ顰蹙堪ヘザルベシ。
(略)

真行草は混乱し、陰陽も禅もなく、凶事の飾りを慶事にしてしまったりと、フリーダムに楽しみすぎだ!と著者は嘆く。

ごもっともごもっとも。

でも、掛軸の巻緒の位置で慶弔をあらわす、みたいな謎ルール、全員がコンセンサスとして得とかなきゃいけないってのは、やっぱ無理あるよ。

真行草だの取り合わせだのは、ゲームを楽しむためのルールなので、最低限のルールだけで気楽にやりたい、という人と、厳密にルール適用して本気で楽しみたいという人にわかれるのはほんとうにしょうがないよ。

本録七(二)ニ利休ガ當時既ニ茶道頽敗ノ傾キアルヲ看取シテ発セシ長文ノ慨歎ヲ載セタリ。
此ノ文ヲ讀マバ、利休ノ活眼三百年後ノ今日ヲ透観シテ、預言セシニ非ルカト、疑ハシム。
(略)

茶の湯廃るべし」なわけだけど、利休が本当にそう言ったとして、南坊録が百年後に是正するものだったとして、結局三百年たっても状況が変えられていないってことに、なぜ疑問をもたないんだろう?

私は南坊録の真贋は別として、「皆で共用できればゲームがより楽しくなるルール」として大いに尊重している。
でも、たぶん、茶道が本質が至ってしまう場所は、もっともっと低いトコだと思う。
それを無視して「利休に帰れ」と上から目線しても人はついていかないと思うんだよね。