南坊録と曲尺割
ちょっと本自体からは脱線する。
南坊録のカネワリ。
なんでこれが南坊録の象徴、みたいになっているのだろうか?
もちろん、南坊録そのものの「墨引」に書いてあるからである。
御坊ハ深切ニ工夫シテ、如此問尋ラルヽコト、我等か鴎ヘノ心入ヨリマサレリ。
イカニモ傳ヘ申ベシ、吉日ヲ撰テ、改テ相傳スベシトテ、天正九年十月廿三日相傳ヲウケ申ケルナリ、其次第アラ/\左ニ記ス。
長いので省略しているが、「歴代なかなか伝授してもらえなかったんやで、特別やで、わし(利休)も苦労したんやで」をめっちゃ長い文で書き込んである。
台子の章でもここまでくどくない。
ところが、江戸時代から明治初期の、南坊録を引用した茶書のたぐいで、このカネワリを熱心に研究したものを未だ見たことがない。
みなさん、「ハイハイ」でスルーしていたものと思われる。
カネワリの研究は、明治の末年に、唐突に始まったものといっていいだろう。
主導者は大日本茶道学会の田中仙樵である。
ここから推測されることは、仙樵は「台子より上位の権威」を求めていたのではないだろうか?
当時の(今も?)千家の家元制度の根幹は、真の台子の伝授を中心とした、利休の権威化にあったわけだけど、そこに「台子より上位の権威」が現れたら、ある意味家元制度が崩壊し兼ねない。
仙樵はそのへん狙っていたんではなかろうか?