喫茶南坊録註解11 藤四郎唐物

唐物ニ二種アリ、
一ハ漢作唐物ト云ヒ、他ノ一ハ藤四郎唐物ト云フ。
其ノ漢作唐物トハ漢製ノ舶来セシ者ニシテ、藤四郎唐物トハ尾張瀬戸ノ陶祖加藤四郎左衛門景正(略シテ藤四郎ト呼ブ)ガ入宋シテ陶法ヲ學ビ、
其ノ帰朝ノ後、曽テ彼邦ヨリ携ヘ帰リシ宋土ヲ以テ、瀬戸ニ於テ造リシ者ヲ云フ

大正名器鑑にもいくつか載っている、いわゆる藤四郎茶入に関する記述。

なお南坊録には藤四郎唐物に関する記述はない。著者がつい、書いちゃったというところか。

瀬戸陶祖加藤四郎左衛門景正、晩年薙髮シテ春慶ト号ス。
元大和ノ人ナリ。
貞應二年僧道元ノ入宋スルニ従ヒ、彼邦ニ至リ、建安ニ留リ、陶法ヲ學ブコト六年ニシテ、安貞二年帰朝シ、
後良土ヲ捜索シテ諸国ヲ跋渉シ、終ニ尾張国山田郡瀬戸村ニ祖母懐ト称スル良土ヲ発見シテ、永住ノ地ト定メタリ。

貞應二年は1223年。道元と一緒に宋へ行き、1229年に帰って来たという事になる。
鎌倉時代。それも、宋に行けるんだから当然元寇前。北条政子すら存命の頃である。

然ルニ世ノ茶人中ニハ藤四郎ノ小壷ハ茶ヲ盛ル為ニ造リシ者ニ非ズ、
宋国ニテ食卓ニ用フル香味料ヲ容ルヽ器ニシテ、我国ノ胡椒壷、香煎壷ノ類ナリ、
後茶道ノ興ルニ及ビ、之レヲ茶入トナセシナリ、蓋シ藤四郎ハ七百余年前ノ人ニシテ、茶道ハ約五百年前足利時代ニ興リタレバナリト云フ者アリ。

それに疑義を挟む茶人がこの頃居た事がここからわかる。

「藤四郎は茶入の勉強に行ったわけじゃない。だって時代的にまだ茶道とかないっしょ?だから当時は別の用途の容器として作ったんじゃね?」

ってこと。

是レ甚ダ誤リタル説ナリ。
漢土ニテ末茶ヲ用ヒシコトハ、前喫茶ノ項ニ述ベシ如ク、已ニ宋代初期ニアリ。
(略)
藤四郎ノ瀬戸ニ業ヲ開キシハ仁治年中ナレバ、栄西帰朝ヨリ約五十年後ノ事ナリ。何ゾ我国ニ茶道ナシト云フヲ得シ。

抹茶法は栄西が将来して以降あったんだから、茶道無いとかいうな!というのが著者の反論である。ずるい。


茶道が鎌倉時代にあって、茶入を作る為に苦労して入宋する様な人物が出、帰国後も茶入を日本で作って食っていけるほどの客がいる、という程盛んなら、もっといろんな文献に茶道と国産茶入の話は出なきゃおかしい。


鎌倉時代に入宋してまで茶入の勉強して来た加藤景正なんて実在せず、室町頃の似たような作行きの茶入を、架空の人物に仮託してできたのが藤四郎唐物茶入だと私は考える。