喫茶南坊録註解12 真と草

本書第2巻部分から、南坊録の注釈が始まる。

対訳方式で、

覺書 トハ心ニ忘レズ、記憶ニ留ムル為ノ記録トノ意ニテ、此ノ文ガ自己備忘ノ私書ニシテ、敢テ他人ニ示ス為ノ書ニ韭ズトノ謙意ナリ。
宗易ハ利休居士ナリ。

と「え?そんなトコまで注釈入れちゃうの?」という驚きの詳細度。


さて、南坊録冒頭。覚書の部分は、ある意味南坊録で一番大事なところ。

第一佛法ヲ以テ云々、小座敷ノ草態ノ茶ハ佛法ニ基クト云ヘバ、臺子書院ノ真態ハ佛法ニ非ルヲ知ルベシ。是正ニ真草ノ原則ニ區別アル所ナリ。是ヨリ以下ノ文ハ専ラ草態ノ茶ヲ説クナリ。

著者は、草庵の茶は仏法に基づいている、しかし、広間の茶はそうではない、と言い切っている。

その発想は無かったなぁ。

露地トハ草庵ニ属スル庭園ヲ云フ(略)

そして露地は草庵にしか付属しない。

たしかに本来の広間は露地を必要とせず、廊下から入るものだが、実際には露地から広間に入る様な茶室も多いはず。
そういう茶室をばっさり切り捨てているのだが、「利休に帰れ」的な思想としては、ある意味正しいのかもしれない。

世塵ノ穢ヲ濯グトハ実に手水ノ真意ニシテ、草庵ノ茶ノ精神ナリ(略)

当然広間の茶には手水が附随しなくてもいい、という事だろう。


ところで、これを読んでいて思ったのだが、茶の湯に真行草のランキングを持ち込んだのは南坊録かもしれない。

山上宗二記は「薄茶が真の茶」と書いているが、これは真行草のランキングではないし、それ以後〜南坊録が書かれた頃までの茶書で、小座敷の茶が草である的な書き方をしたものは無いように思える(きちんと文献的に調べ尽くしたわけではないが)。

ではそれ以前どうだったかというと、茶の湯には普通(=お金持ちの)茶と、侘び人の茶があっただけである。茶の湯を貧富貴賎で分けていたわけだ。

南坊録は、貧富貴賎を真か草かに転換したのではなかろうか?

これって凄いことだぜ?