喫茶南坊録註解13 宗悟と宗陳

此ノ項ハ茶道ノ系統ヲ叙セル者ナリ。
総論ニ述ベシ如ク、能阿弥ハ真態茶道ノ祖珠光ハ行態茶道ノ祖、紹鴎・利休ハ草態茶道ノ祖ナリ。

能阿弥は真、珠光は行に比定すると、足利義政はどっちだったのか?というのがややも曖昧になる気が。

宗悟は蜂谷氏、十四屋休齊ト号ス。
蜂谷伯耆守頼重ノ孫ナリ。
(略)
天正元年正月十八日没ス。

信長/秀吉の家臣、蜂屋伯耆守頼隆は先祖不詳である。蜂谷伯耆守頼重とは誰なのだろうか?

また、珠光は1502年没とされていて、1555年に死んだ紹鴎も直接学べなかった人物。
珠光の弟子で紹鴎の師匠が1573年没だとしたら、一体何歳だったのだろう。
そして利休が宗悟に直接学ぶという選択肢が有り得る没年なのだが、著者は気にしなかった模様。

宗陳も亦十四屋ト称ス。
其ノ氏名詳カナラズ。宗悟ト親シ。京都五条ニ住ス。

宗陳は宗珠の書写間違い、しかも間違った本から南坊録に写したものである、というのは神津朝夫"千利休の「わび」とはなにか"で指摘済みの項目。

岐翁ノ傳詳カナラズ。

著者は岐翁紹禎を知らなかったらしい…。
集雲庵/南坊の研究者としては、なんだかなぁ。