喫茶南坊録註解17 正月元日

南坊録の会より:

正月元日 客ナシ 四畳半ニテ大フク祝
一 牧渓寿老人 一 釜 雲龍 一 ツルベ シメ引テ
一 茶入 尻フクラ盆ニ 一 薬師堂天目臺ニ
一 花入 鶴首ニ梅 一 手ふくべニテ炭

この亭主オンリーのやや嘘臭い素敵茶事を、著者は一体どう評価したか。

此ノ日ハ年始ナルガ故ニ、総テ祝意ヲ表シ、且ツ荘重ナル心ヲ以テ飾リシナリ。
(略)
此ノ飾ハ四畳半棚なしノ飾ナリ。
(略)
此ノ日ハ祝儀ノ日ナレバ、飾ハ総テ陽矩、陽数タルベシ。本録六(五)ニ「祝儀ノ時ナド、勿論書院、押板、臺子、一式陽ノカザリナリ」トアレバナリ。

まず、全く持って、南坊録の真正性を疑っていない。

それどころか、七つの道具が表記されているのを、陽数だと喜んでいる感じすら、する。


私が思う事。


この会は、亭主一人の会。すなわち、この茶会記を書けるのは利休しか居ない、というのが確実な会である。自分の会記を南坊宗啓に渡し、奥書きまでつけて利休は何をしたかったのだろう?というのが第一。


その二。掛軸と花が別に表記され、炭道具が書かれているが、自分一人で茶一杯飲むのに、利休は中立でもしたのだろうか?


んで、その三。
会記の道具の数数えて陽数とかいうのはどうだろう?
茶筅も柄杓も建水も茶杓も無しに、釜に茶碗を突っ込んで湯でも汲んだのだろうか?


そもそも、道具の丁半と陰陽が大事で、しかも道具組の仕方でその数え方を変えれるのならば、茶会記の記述法に影響がない方がおかしいではないだろうか?

(茶巾+茶杓茶筅)/茶碗、みたいな飾り置きの仕方を記述できる記法がない、ということは、茶の湯にそんなものは大事な事でも何でもなかったということではないだろうか?