喫茶南坊録註解20 曲尺割の由来

南坊録「墨引」より、曲尺割の由来。

曲尺割に関しては、非常にもったいぶった伝授が利休から南坊宗啓に行われている。
その際の利休のもったい付けが以下の様なもの。

某モ道陳ニ再三問シカ共、秘事トノミ云テ傳授セズ、
紹鴎ニ尋申タレバ、道陳ハ不教ヤト仰ラル、
秘シテ不教ト申ス、イヤヽヽ左ニアラズ、
我等或時道陳ニ尋シニ、空海モ此事何共不申ト答ヘテ不分明、
我等宗陳ニ問シニ不知、宗悟ニ問シニ、悟ハ珠光ノ傳深切野ノ人ニテアリシ故、
慥ニ覚ヘテ共ニ被傳シナリ、ケ程大切ニテ知ル人稀成事故、第一ノ傳授事也、

利休は北向道陳に伝授を請うたが断られ、紹鴎から「道陳も知らんのやで。道陳の師匠の空海も知らんかったし。俺等宗陳宗悟に尋ねたけど、宗悟だけ知ってたわ」と聞き、伝授を(多分紹鴎から)受けたと言う。


それに対する注釈。

抑モ此ノ矩ノ規則ハ何代何人ノ制定ナルヤ、
本録ニモ之レヲ云ハズ、
唯能阿弥ノ傳或ヒハ能阿弥斯ク為セリ、或ハ能阿弥以来ナドノ言アリテ、矩ノ制ハ能阿弥ヲ宗トスル如シ。
窃ニ惟フニ、足利義満以来制定セシ茶法アリシナランモ、是等ハ専ラ貴紳ノ間ニ在リテ、其ノ典故ハ室町家同朋衆ニ秘守セラレテ世ニ公表セラレザリシナランカ、能阿弥ニ至リ
之レヲ易理ニ改ヘ、一定一貫ノ理法ヲ定メシモノナルベシ。

元々足利家に伝わるルールを能阿弥が判りやすくしたのでは?と著者は推測する。

茶の湯を義政の時代の開始に仮託している以上、義満時代からのルールは茶の湯の為だけのルールではない。何かのルールを茶の湯に転用したものでないといけない。

であれば茶の湯以外の場での利用や、他の趣味への伝播があってもおかしくない…のに存在しないのはおかしい。


も一つ言うと、能阿弥→空海→北向道陳のラインで失伝していて、珠光→宗悟→紹鴎のラインで伝わっているのを能阿弥起源にするのは如何なものだろうか?


そして最も重大なこと。

そもそも茶の湯のルールは公開知でないと意味がない。
一万人に一人の茶人だけが知っているルールとか、何の意味があろうか?