喫茶南坊録註解23 茶の本道棄るべし

「滅後」より。

臺子陰陽ノカネヲ以テ百千萬ノ飾、草茨ノ侘座敷迄此ノ法ニモルヽ事ナキ子細ハ、多年修行ノ所ナリ、
扨又侘ノ本意ハ清浄無垢ノ佛世界ヲ表シテ、此露地草庵ニ至リテハ塵芥ヲ拂却シ、
主客共ニ直心ノ交ナレバ、規矩寸法式法等アナガチニ不可云、
火ヲ起シ、湯ヲ沸シ茶ヲ喫スル迄ノコトナリ、他事不可有、

ルールはルールとして、侘び茶の本意は仏の道と心のふれ合いにあるんやから、そーゆールールの事を茶室で言うたらあかんのやで。

まぁそんな事を言っている。


ここまでで終わっていたら素晴らしいんだけど、元著者はどうも筆の置き所を失うタイプ。


そーゆー本意はなかなか叶えがたい、という話から、

十年ヲ過ギズ茶ノ本道棄ルベシ、スタル時、世間ニテハ却テ茶ノ湯繁昌ノ時分ト可思ナリ、悉ク世俗ノ遊ビ事トナリテ、アサマシク成果ルコトヲ易ニ於テハスタルト云フナリ、

割と有名なこのフレーズ…茶の湯批判に辿りついてしまう。


それに対する著者の感想。

此ノ一文利休ノ感慨ヲ叙シ得テ餘蘊ナク、讀ム者ヲシテ悽然其ノ心意ヲ偲バシム。
実ニ當年ノ茶界早クモ堕落ノ萌芽ヲ生ジ、茶道ヲ道トシテ解セズ、遊技トシテ玩弄スルノ傾向アリ、利休が之レヲ看取シテ発セシ慨嘆ヲ既ニ讀ミ去リ讀ミ来レバ、恰モ三百年後ノ今日ノ茶道ノ運命ヲ先見洞観シテ発セシ預言トシテ聴ユル感ルナリ、噫。

茶の本道棄るべし」は、どの時代にも受け入れられて来た名文句で、どの時代でも解決つかなかった問題。

というより、「棄れた本道」なんて存在しない。その理想の茶はアブストラクトクラスで実装は存在したことがないんじゃないの?

だからこそ「現代の茶は利休さんの頃に比べて堕落している!」とかいつでも言えちゃう。

利休さんの時代は唐物崇拝から国焼に名物の枠がシフトしたけど、名物を尊ぶには違いなかった。十分に遊びの道具茶だった。
大徳寺への帰依も遊びの一環。というか、禅を嗜むというのは茶の湯関係なく当時の楽しいスポーツみたいなもん。


あと、利休の「預言」という言葉を著者、柴山不言がどういう意味合い/つもりで書いたかがすんごく気になる。

なぜなら柴山不言はハリストス正教の司祭だったからである。