喫茶南坊録註解25 住吉屋宗無
滅後からは、他の茶人の噂話的なものが入ってくる。
文章構成上、これ以前の章では入れられなかったものだからだ。
他の茶人の評価を書いた文に奥書を入れる利休、というのを原著者も避けたかったが故の構成だろう。
滅後、原文より:
住吉屋宗無ハ古風
真手ナル茶人ニテ、
タトヘバ此茶入ニハ此茶碗、此水指と、日頃呉々吟味シテ定置、凡テ飾、置合ナドモ常住一様ニセラレシ故、未熟ノ輩ノ見所少ク、無興様ニ人々思ヒケレ共、其日其夜ノ節ニ應ジ、思入アルコトヲセラレシナリ、
(略)
人ニヨリ宗無ハ茶ノ湯シメリ過タリト云ヘリ、休ハ一段誉ラレ、
今少シハタラカセ度ハアレドモ、働キ過タル過ヨリハ遥ニ増レリト、何レヨリモ被賞タリ。
住吉屋宗無は、日々の置き合わせ吟味が凄く、素人には理解されない茶をしていたが、利休はそれを褒めた、というお話。
著者の解説。
器具ノ撰擇、矩ノ制定ニ於テ忽諸ニセザル所、其ノ真摯ノ人格ヲ窺フニ足ル。
其ノ勤勅恭敬ニシテ、敢テ新ヲ趁ハズ、奇ニ趨カザル所、最モ貴ブベキナリ。
利休ガ働キ過ギタル過失ヨ遥ニ勝レリト云ヘル、亦吾人ノ亀鑑トナスベシ。
本当、いい話だと思う。
ただ、著者の解説にもあるよう、日々の訓練により練り上げられた曲尺割に従ったすばらしい置き合わせ、だったとして、それが客に理解いただけないなら、意味はあるのだろうか?
中島敦の「名人伝」と根底でつながっていそうな名人観ではあるが、茶の湯はコミニュケーションツールであり、独りよがりを褒めるのはいかがなものだろう。