喫茶南坊録註解30 煎茶道

滅後より。

古渓和尚ハ煎茶ヲ殊ノ外好ミ玉フ、
(略)
サテ和尚ノ玉フハ、我等煎茶スキ御存知ノ通也、
唐ニテハ各茶ヲ煎ジテ賞翫スルコトアリ、
日本ニテハ挽茶専ニ被用、唐ニテモ挽茶稀ニハ用ルト見ヘタレ共、日本ノ様ニハナシ、
煎茶ニテ露地入、茶湯成間敷ニ不有、吾等ノ好ニ對シテ、始終ノ働、御了簡候ヘトノ玉フ、
休モ如何ニモ近日思案シテ可申由也、
其後如何尋テモ聞サリシ、渓公モ西国ナレバ不及力也
(略)

古渓が、利休に対し、「煎茶でも茶事って出来ね?」と聞き、利休が「考えとくわ」と回答したけど、その後どーなったのかなー。古渓も西国に行っちゃったし、聞けねーわー。

というお話。

利休が煎茶道も制覇していたかも、みたいなことか。

著者解説。

此ノ頃ハ西筑ヨリ召還サレシニ似タリ、姑ク疑ヲ存シテ後考ニ俟タン。

いや、滅後の頃には古渓京都へ戻ってたよな…。ま、誰か考えてちょ。

といった感じか。


しかしですね。中国の茶礼の主流派が煎茶であることを認識していたら、当時の唐物崇拝からして皆が煎茶道をはじめてたんじゃないですかね…?