千利休は、豊臣政権下で三千石の祿を喰んでいたという。
これは75人の兵士を軍役で出さなきゃいけない石高である。
まぁ捨扶持だろうけれど。
でもこれって本当だろうか?
本当ならどこの土地を領有し、代官は誰で、何か由緒あるものがその土地に残っていたりしないんだろうか?
全然伝わってないぞ?
この話は千利休由緒書が元ネタで、江岑宗左が紀州徳川家に対し提出したもの。
採用の際の履歴書みたいなものである。
「わし、ひい爺さんは割と有名だけど、ホンマはその時点で旗元クラスの家格なんで、ここでもそのくらいの待遇しといてぇや」
というアピールの為のデッチアップじゃねーのかなー。