茶道教室3 誤られた茶道

お茶といへばれまで随分世間から誤解されてきた。
貝原益軒だの太宰春臺だのいふ人は攻撃の急先鋒であつたが、認識不足を免れない。
いま茶道が誤解される理由の二三を検討してみよう。

よくあるお茶への批判について。

でも貝原益軒ってお茶批判してたっけ?立花実山にそれなりに引き立てられていただろう人なので、仁義を欠く気もするのだが。

第一は特權階級の専用物といふにある。
(略)
然し一方にまた、表面に華々しく現はれずにこの道を深く掘り下げて來た無名の、無産の幾多の茶人が、永い時代と傳統に生き續けてライタことを思ふべきで、しかもそれ等の人々の見えぬ力が大衆を支配し、大衆が黙々として支持傳承し來つたればこそ、今日の如き茶道の大をなしたことも忘れてはならぬ。

年貢を払う人がいたから江戸時代は平和やったんやで、的な理屈は肯んじられない。
誰も特権階級の茶をしたくなかったわけじゃないと思うんよ。

第二はお茶を贅澤といふ。金持ちの骨董道樂でしかない。
(略)
内容價値と價格は必ずしも正比例しない。
(略)
さらに茶道具の大部分は、元來が見立應用か、代用品乃至は廢物利用品である。

でもその見立て品、有名人が見立てるとすんごく高価になるんでしょう?

第三にお茶を非衛生として排斥する人は偶々垢づいたかの如き古い茶碗を難じ、就中濃茶の飲み廻しを攻撃するのである。
(略)
元來茶道は清浄清潔を以て第一絛件とする。寧ろそれは潔癖にも近い。

お茶の「清める」は概念的なもので、本当に綺麗なわけではないから。君の服紗はいつ洗ったんだい?ってなもんでな…。