日本の茶道の流れ6 宗舟


小堀正行家の、小堀宗舟について。

小堀本家八世・小堀宗中に茶法を学び、江戸下谷練塀町に住み、宗舟と号して茶道を子弟に教授した。
明治二十六年(一八九三)茶道普及のため関西に赴き、京都紫野大徳寺塔頭孤蓬庵で小堀遠州二百五十年忌を修行した。
同三十四年(一九〇一)八月三十一日に孤蓬庵で没した。

高谷宗範のトコで出て来た人。
http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20141113

小堀本家八世・小堀宗中ってのは小堀本家を復興した政優の事。
「嘘っ?」と思って確認したが、政優が1868年没で宗舟が1840年生まれ。できんことはないのか…。



江戸時代は分家小堀正行家は普請奉行などになり、小普請組三百俵の本家より羽振りがよかったんだと思う。
ところが明治維新で祿を喰めなくなった両家。
明治期を茶の湯で乗り切ろうとしたが、家元の権威で本家に分があったってことなんだろう。

宗舟は関西で弟子を得ようとし、高谷宗範の庇護を得た。

明治前半の時点で分家小堀正行家の主人が大阪に流れ客死している。んで次の代には没交渉になり、その次で独立、か。

小堀家が武士でなく茶家として身を立てようとした時点で、両家はもう分裂していた、と見た方がいいかもしれない。