野狐禅2 禅

禅の有り方について。

偖て一般に禪の講話には能く解脱といふことを力説する樣に思ひます。
解脱とは人間界に對する執著を離れ貧富、貴賤、苦樂、夭壽などヽいふ二端に亘れる煩悶を受けざるに至ることを云ふのである。
併し斯る執著が無くなると其人には自然人生を馬鹿にする弊が伴ふて參ります。
然れば或は一生懸命に稼いで居る人に向つてソンナに稼いで何にするかといふ。
すると云はれた人は稼ぐのが馬鹿らしく成つて仕舞ます。
或は正直眞方に世を渡つて行く人に少し位は構はんから曲つた事でもやつて見よと云ふ。
是はどうも良くない。

禅はさまざまな執着から離れるので、世離れた人になってしまう畏れがある。

勿論禪の本旨は決して左樣な者ではありません。
禪は必ずや慈悲を本願とし世の中の苦患を除くことを心懸くる者でなければならぬのであります。
然るを只己れ獨りの解脱のみを想ふから前述の如き失態をも仕出かすので、是は禪では飽まで戒めなければならぬ事であります。

禅は多分、すっごく小乗的な仏教なので、お題目として世界の救済を挙げても、どうしても自分の主観から逃げれないってことなんじゃなかろうか。

…つまり、合目的なトコへたどり着いていないという意味で「解脱できてない」と言えれば言えるんだけど、そう言わないところが「解脱にそもそも目的性がない」ことを示しているんじゃなかろうか。