仙叟宗室居士の遺芳4 臘月庵千仙叟宗室居士の生涯

筒井紘一著。

晩年の居士は、末子相続ともいうべき今日庵の遺跡を守り、これを重代していく礎が整ったことに大きな満足を感じていたと思われる。

筒井さん文章うまいなぁ。
末子相続は今日庵にかかり、重代も今日庵にかかっている。

千家の本家を末子相続したわけでも、末子相続を重代しているわけでもないのに、千家は末子相続で裏千家を本家に歴代やってきた様に読めてしまう。
末子相続なら井口海仙が家を継いでいる筈なんだが。

さてここで確認しておかねばならないことがある。
今までは『寛永十九年 小松士帳』によると、二百石取りとして千宗室の名があるから、仙叟居士は寛永十九年(一六四二)に利常公に仕えていたというのが通例になっていた。
これは(略)という嘉永六年(一八五三)の写本からの説である。
ところが『小松武鑑 附小松奉行代々筆』(加越能文庫)の寛永十九年には
 一 弐百石 三ノ御丸 山中喜斎
 一 同 同 千宗雲
(略)
とあって、明らかに『千宗雲』と書かれている。この『千宗雲』なる人物が、そのまま宗旦の長男であった宗拙と結びつくものではないが、千家と関係のある人物が、既に三代利常公に仕えていたことだけは明らかである。

「室」を「雲」って書き間違えちゃっただけじゃね?

ちなみに寛文侍帳だと金森七之助は二千石。
やっぱ加賀は宗和流の方が主流派だよなぁ。