茶と禅3 道具茶のこと

世に「道具茶」という言葉がある。
茶を飲むことよりも、茶の道具を集めて茶会を開き、茶器の自慢に、客も賞め、主人も鼻高々とそれを披露するありさま、これはべつに悪いことではないが、茶の道からいえば邪道であって、正しい道とはいえないのである。

禅の人が茶の道について語るのは別に構わない。
でも、禅の人に「正しい道」とか言われても、ちょっと困る。そういった正邪からは超越しておいてほしいのだが。

かの有名な松平不昧公も、茶の湯の正道を説き、『贅語』という著書のなかに、(略)ぜいたく三昧を尽くすのは、茶の道に反して片腹痛きこと、と説いている。

藩が財政難な20歳の不昧はそう書いたけど、金が出来たらころっと変わった。
それが人間というものだろう。

要は、茶道の精神を忘れているから邪道である。
茶の湯のこころを知らずして、ただその形ばかりに囚われ、その当座の見栄ばかりを張り、物欲のことばかり言っていては、茶の道はすたる。

享楽を恥じる日本人の奥ゆかしさが、茶の湯を禅に仮託しただけで、「茶道の精神」とか、大上段にふりかぶるのは、茶道本来無精神だからである。

道具への執着を無くし、心と心のふれ合い!とかを中心にお茶をしていたら、多分数年で廃ると思う…。