茶と禅4 茶礼

本書には、ごくわずかだが禅の茶礼について触れたところがある。

茶の湯の本意は仏祖の行に習い、茶をたてて、仏祖に供え、それを多くの人に施し、我も飲むというところに、これがおごそかに行われるのである。
禅宗では「煎点法」と呼んでいるが、これは厳粛なる礼法であって楽しみではない。遊興ではない。
しかし、茶の湯はそれを一般的に、庶民的にして、上下の隔てを去り、貧富の別を忘れて、互いに生を喜び、その一期一会を楽しむのが茶の正道とするところで、それが歴史的には珠光、紹鴎、利休を経、宗旦に至って、次第にその理念をはっきりとさせてきたといってよいと思う。

禅の側から見て、「茶礼は楽しみではない」というのは、なかなか聞かないのでポイント高い。
謝茶とか、なんか微妙に楽しそうなんだが…。

しかし、元々楽しくないものを庶民が楽しみに変え、その上で元の精神性を保とうとする、というのは本来無理な気がするのだが、どうだろうか?