淡交増刊 寛永文化と茶の湯

淡交社/1983年。

熊倉功夫寛永の風景」より。

寛永文化という言葉はあまり耳なれない。
桃山文化と言えば、すぐに豊臣秀吉と利休の姿が目に浮ぶし、元禄文化といえば西鶴の好色物や近松浄瑠璃が思いつく。
では寛永文化といったときは?
茶の湯でいえば千宗旦小堀遠州の時代だ。

毎度熊倉の要約能力には驚かされるなぁ。

そう、寛永文化とは、奔放な桃山文化を、江戸時代に向けて窮屈な所に押し込めるプロセスである。
宗旦と遠州を、利休と織部と比較すれば一目である。

しかし、それにしても彼等の文化創造を助け、また披露する場がなければならない。
その場をサロンと名づけ、寛永のサロンをいくつかのぞいてみることにしよう。

後水尾帝のサロンにしても、光悦の鷹峯にしても、あくまで閉鎖系のサロンであって、町民文化ではない、というのも特徴かもしれない。

町民にとっては、まだ桃山時代気分だったと思うし、気づいたら窮屈な江戸時代になっていて、「じいちゃん昔は女物の着物来てかぶいてたんやで」「うっそだぁ」みたいな過渡期があった筈。

そんなかで足掻いていたのが、寛永のサロンではあるまいか。