茶人の旅4 前田家の茶湯流派

前田家の採用した茶家は宗和、遠州裏千家の三家。

他に藪内流があったようだが、京から町方で流れてきたもので、藩としての採用とは言いがたそうだ。

〔加賀宗和流〕
(略)
利常はその茶風を愛し、利家と右近の関係もあり、何とか宗和を加賀にと、
再三養成したが、宗和は固辞して之を受けなかったので、その子七之助を千五百石で御馬廻役として召し抱え茶湯指南とした。
(略)
家老本多政長は、宗和門であったので、七之助を助けて加賀宗和の定着に協力した。
(略)
多賀宗乗(一七九〇〜一八二九)は、(略)代々知行五千石の武家であり、(略)いわば加賀宗和流中興の祖でもある。

宗和流加賀金森家は途中で断絶しているが、多賀家が引き継ぎ、後に東京へ移転。家老だった本多家が金沢の宗和流を代表しているとのこと。
五千石というそこそこの身上の人が流儀を支えていたんだから、幕末までかなりの勢力だったとみるべきなんだろう。

遠州流
二代目利長が、遠州の甥小堀重政を千石の扶持で召抱えたのが加賀に於ける遠州流の始めである。
さらに利常は遠州の女婿小堀新十郎を千五百石(後に二千石)で召抱えて茶湯指南を命じているので、利常時代には金沢に遠州流が定着したのである。

遠州流の導入は、江戸での御成への対応などの可能性もあるが、案外遠州の側室が徳川家綱の乳母になったから、みたいな俗な利益を望んだ可能性も在り得る。
なぜなら新十郎の子は、前田綱紀の側室を譲り受けて正室にするなど、閨閥ぐるみの感じが否定できないからである。

裏千家
(略)
仙叟は、最初江戸藩邸への将軍御成の飾りつけの手伝をしてから利常と共に小松城に入り、利常の側近に仕えて、城内数寄屋の建設に協力し、利常没後、金沢に居を移し、五代綱紀に茶湯指南をする一方、家臣及び町方に広く宗旦の茶湯を伝えた。

裏千家の祿は隠居した利常に仕えた時が二百石で、その後金沢では百五十石に減らされている。
宗和、遠州に比べてどうにも扱いが悪い。
武家じゃないからしょうがないといえばしょうがないんだろうけど。

仙叟は、千家の焼物師楽焼の四代一入の弟子であった土師長左衛門を金沢に招き、城下の大樋町で楽焼の脇窯として茶湯用の焼物に従事させた。
(略)
又、利家時代能登中居より金沢に居を移していた武具鋳造の宮崎家の彦九郎を京の大西家に修行に出し、帰国後、茶釜の制作に当らせ、これが現在の寒雉家の始めとなった。
このように仙叟と常叟の加賀藩勤めは、茶湯の京文化を金沢に移入し、見事に花を咲かせたのである。

業績としては京文化を金沢にもたらしたこと。

むしろこっちの為に前田家は雇ったんじゃなかろうか?

楽脇窯の招聘も、地元釜師の留学も、二百石の小身で出来る事ではない。
その資金はおそらく前田家から出ていたのではなかろうか?

そこから「茶道具奉行」として前田家に仕官した、という話になったのではなかろうか?