茶道規範15 聞書 茶點やうの事/數奇屋

薄茶の際に、広間に移る風習について、聞書は批判している。

數奇屋を茶の別席と心得茶の湯一通り首尾能濟
御草臥にてあらん座敷へ御通り休息あれと云はん計りの仕かたなり
數奇屋は茶入の居所なり
夫へ訪ひむつましく語ることなり
然るに其席があきて外座敷へ通るが事面白からず
氣つまりくたびるヽ程ならば廣座敷持ちたる人は初より其席にて寛話したるかた快よからん
いりもせぬ狭きところへ押合ひて寒暑もいとはず潜り入り茶を呑む人こそ誠に人のためにすくといふべけれ故に當流にては何疊敷にても茶を點る所をさして數奇屋小座敷といふと宗偏言われしなり

「いやいや狭いところですんまへんな。おつかれでっしゃろ?広いトコでゆるりと薄茶でもいかがですか?」とばかりに広間に移るのはどうだろうか。
疲れる様なら最初っから広間でお茶すればいいんじゃないの?
狭いところを好きこのんで入り茶を呑む人が数寄者で、宗偏流では何畳敷でも茶を点てるところが数寄屋小座敷なのよと宗偏は言った。


茶の湯において、道具は時代からの借り物でしかない。
茶人の創意工夫がもっとも出るのは茶室であって、そこに気詰まりするくらいなら、小間の茶なんてやらなきゃいい、という過激論には賛成できる。


ただ、「宗偏言われしなり」の原典が確認できない。
鎖の間とかが華やかなりし頃の宗偏が苦言を呈していないのに、現代になってひっくりかえすのはどうなんだろうか?