茶道規範16 聞書 後の火直す事

後炭手前の際の底取りについて。茶道便蒙抄にこうある。

一 此の火直す時。爐中つかへたらば下取の土鍋を持出。
灰を取らるがよし。
當代は客より下御取あれと申すなり。
一切不心得。
下取事客への不禮にて有間敷事也
不斷茶の湯仕懸候へば時ならず灰つかゆるなり。
其節客よび合候へば客有とも辭儀に不構下を取て。炭置かで叶間敷なり。
當代は客よび候時為其に灰を直し。茶の湯仕懸るなれば中々下つかゆる事無之。
然れとも客より下御取あれと申せば客に任せ。つかへざる下を心得かほにて取る事をかしき事なり。

炉の火を直す時、炉中が灰でいっぱいになった(ために炭がつぎにくい)時、ほうろくを持ち出して取ればいい。
最近は客が「底取りどうぞ」と言うけど、ありゃあいかん。
底取るのは客に失礼な事で、やってはいけない。
常釜をかけていれば時には灰がいっぱいになる。
そういう時に客を呼んだ場合は挨拶とかいいから底をとって炭を置かねばなんもできないではないか。
最近は客呼ぶ予定の時に灰を直してから釜をかける。そうそう灰がたまったりはしないはず。
なのに客にそう言われたらといって、ドヤ顔で大して溜ってない灰を取るのはおかしい。


江戸時代中期には底取りの挨拶があったと判る。
それに異を唱える宗偏は理にかなっていると思う。


さて、聞書の追加条項。

下取る事客へ不禮にても有まじき事なり此炭は薄茶の湯のためにするなり前に書きたる如く末流にては數奇屋は濃茶切りにて薄茶は外座敷にてする故に此炭を末流にていふが如く立ち炭と心得るは間違なり
其上に當代の下を取を見ればつかへたる炭を取るにてはあらずして下火を殘らず取なり。
然かすれば炭起すこと無益の費なり甚しきは火あれば細炭を御上げあれといふ。笑止のことなり
(略
當流にては不斷湯を沸し置なれば假令所望の炭たりとも随分火うつり能きやうにすべき事なり
宗旦の置物に先づ吝くてはならぬものなりと書れしよし

客前で底を取るのはそもそもやっちゃいけない。
後炭は薄茶の為にするわけで、広間に移る為の「立ち炭」であるという他流は間違いである。
最近は底を取るときに下火も取ってしまう。炭をおこしなおすのはお金の無駄ではないか。まして「炭のかけらも御取り下さい」みたいな挨拶は馬鹿じゃねーの?

宗偏流では常釜を掛けるのだから、例え所望されたとしても、ちゃんと火が移る様に置くべき。
宗旦の書置に「ケチは行かんよ」とある通りだ。


後炭の時の底取りに関し「必要ないならしない」というきっぱりした態度は好感が持てる。
この部分茶の湯の形式化の一端だよなぁ。